「マラソン会談スタート=アフリカ40カ国首脳らと-福田首相」
時事ドットコム http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2008052700029
福田康夫首相は27日午前、第4回アフリカ開発会議(TICAD)の開幕に先立ち、参加するアフリカ諸国首脳らとの会談をスタートさせた。首相は朝の閣議を終えた後、TICADの会場となる横浜市に移動。午前11時前からボンゴ・ガボン大統領と会った。29日までの3日間に予定している会談の相手は過去最多の40カ国に上る予定。
首相は一連の会談で、日本の国連安全保障理事会常任理事国入りへの支持を呼び掛ける方針。中国がアフリカへの援助や投資を増やす中、「アフリカ支援の老舗」(外務省幹部)として、地域の発展に積極的に協力する姿勢をアピールしたい考えだ。
会談は原則1人15分。3件こなした後、20分の休憩中に次の3件の勉強会を行うという過密日程だ。27日はメレス・エチオピア首相やキバキ・ケニア大統領ら16人と会う予定。紛争が続くスーダンのバシル大統領との会談は28日午前に行われる。TICADは28日、開幕する。
この記事を読んで、アフリカ日本協議会のML経由で送られてきた以下の論文を改めて読み直しました。
筆者は、酪農学園大学の森川 純 教授です。
論文をご紹介されている四国学院大学 高林敏之助教授によると、森川先生は反アパルトヘイト運動の一翼にあって、日本のアフリカ外交(援助政策に限定されない)の構造を実証的かつ歴史的に検証してこられた方です。
この論稿は2005年に欧州のアフリカ専門学術誌に掲載された論文の前半部をなすものですが、TICAD IVを迎える現時点においても有効性はまったく失われていない、と高林先生は解説されています。
私は、日本が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位に占めたい」と謳うことを誇りに思うし、祖国がそのような役割を担ってほしいと希求するし、そのため自分も何らかの役割を果たしたいと願っています。
しかし、国の外交姿勢とアプローチを見ていると、複雑な心境になり、このようなやり方では、アフリカにとっても日本にとっても決していい方向にはいかないと強く感じます。
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「アフリカ開発会議」(TICAD)とは何かーいま一つの捉え方ー 森川 純(酪農学園大教員)
アフリカ開発会議のイメージと現実
アフリカ開発会議(Tokyo International Conference on African Development) 略称TICADは、ポスト冷戦時代への移行が明確となった 1993年の秋に日本政府のイニシアチブで開催された国際会議である。
その目的は、冷戦終了に伴い低下した国際社会のアフリカに対する関心を高めること、および民主化や市場経済への移行といったアフリカ諸国の自助努力を日本が国際社会に呼びかけて支援することとされた。
日本が援助受け取り国とドナー側の国々や国際組織の代表者達を集めた大規模なアフリカ開発会議を企画、提案、準備、実施したことは、アフリカ諸国のみならず国際社会一般にも大きな驚きをもって迎えられた。
というのはアフリカ国際関係の外部アクターとしての日本は欧米諸国はいうまでもなく中国やインドと比べても目立たない脇役に甘んじてきたからである。(1)
そうした国際社会の会話の種となりうるTICADに関しては、その背景、目的、議論の内容、意義、アフリカ側の自助努力の象徴である「アフリカ連合」(AU)や「アフリカ開発のための新パートナーシップ」(NEPAD)への貢献、日本のアフリカ外交への影響などについて多くの議論がなされてきている。
だが本報告では“アフリカに貢献する日本”といった文脈で一般に行われて来ている“言わばパターン化された”議論の輪には加わらない。
その理由は、TICADがイメージ操作を目的として日本政府によって巧みに組織された壮大な外交ショーであると判断されるからである。言い換えると、蜃気楼のような実体のない国際会議を追いかけても日本のアフリカ外交の究明には役には立たず、むしろミスリードされる可能性が高いからである。
とはいえ1993年、1998年、そして2003年に連続して開催されたTICAD が国際社会一般における日本のイメージ向上にもたらした影響は大きかった。
この10年を通じて以下のようなイメージが形成される。一つはTICADとは、言わば、“アフリカの,アフリカと日本を始めとする国際社会による、アフリカの為の会議”というそれである。
いま一つは、そうしたTICADの主催者である日本が行うアフリカ外交は、“利他主義”に基づく援助外交に他ならないというイメージであった。
それらの肯定的なイメージはアフリカ開発会議自体が持つ劇的な効果を活用した外務省による広報キャンペーンおよびそれに同調した日本のマスメディア一般による報道によって内外に広く流通される。(2)
その結果、日本のアフリカ外交とは”援助外交である”というイメージがあたかも実体であるかのように一人歩きし始める。
そうした状況の中で、いかに効果的で感謝される援助を行うか、に焦点をおいた議論が支配的となるに至る。(3)
だがアフリカ開発会議とは、一体何のため、誰のための会議なのであろうか。
この一見自明のような疑問について我々は改めて考える必要があろう。この点の理解に関しては、外交青書の以下の主張が参考となろう。“開発途上国に対する援助は、相手国の経済開発や福祉の向上に寄与する点に加えて,中・長期的観点から日本の国益に資するものであるということである。
特に,平和憲法の下、日本ではODAは他国以上に重要な国際貢献の柱となっており,援助以外の分野における外交努力とあいまって開発途上国の経済発展へ寄与し、二国間の友好関係を増進するとともに、日本の外交の基本姿勢に対する国際社会の信頼を高め、国際場裡における日本の重みを増すことにつながっている。
近年、日本が、カンボデイア復興国際委員会(ICORC)第1回会合、アフリカ開発会議、モンゴル支援国会合など援助分野におけるイニシアチブを特に発揮してきているのは、まさしくこうした観点からである。”(4)
以上の証言は、アフリカ開発会議の開催はそれ自体が目的ではなく、より大きく長期的な日本の国益を実現させる為の一つの手段であることを率直に述べていて興味深い。
それではポスト冷戦時代への移行が明確となった1990年代初頭以来、積極的に追求されるようになった、より大きく長期的な日本の国益なり目標とは何であろうか。
それは、日本は、“グローバルパワーとして世界の平和と発展に貢献する意思と能力がある”という姿勢を国際社会に強くアピールし、日本を政治大国として受け入れてもらうことと指摘されよう。
象徴的に、それは日本を国連安全保障理事会の常任理事国として参画させようとする政府の主張と行動に反映される。(5)
そうした国家目標の実現には国連内で日本を支持する国を可能な限り増やすことの重要性を外交当局者に再認識させる。
その観点から言えば50カ国以上のブロック票を持つアフリカから日本に対する支持を得ることは大きな現実政治的な意味合いを持った。
だがそのためには、冷戦時代に日本政府が推進した後述する親プレトリア政策がもたらすこととなったブラックアフリカ諸国側の根深い批判や不信を修復する必要があった。
幸いにも米ソ対決もアパルトヘイト政権も1990年前後にアフリカ大陸から退場する。
傷ついた日本のイメージを修復し肯定的なものとするインパクトのある外交イベントとしてもTICADは有用な道具となる。
1991年8月からアフリカ開発会議直前の1993年7月末まで外務事務次官を、その後、国連大使を努めた小和田恒氏が当初の企画段階からアフリカ開発会議という劇的な外交ショーの脚本家及び舞台監督として重要な役割を演じたことは全くの偶然ではない。ちなみに彼は、米欧日のトロイカ協調による冷戦後の新たな世界秩序の形成と運営を強く主張するのである。(6)
だが建前の熱さとはうらはらに外務省のTICADに対する姿勢はむしろクールなものであることに注意する必要がある。
それは以下に検証するように同会議の性格付け、決議などの内容、その実現のための方法論、会議の運営方法などに反映される。
第一に、TICADという国際会議の性格に関する主催者の日本政府の立場は当初から明確であった。
それは援助プレッジ会合ではなくアフリカ開発の理念と方策について検討するハイレベルのフォーラムに過ぎない、と繰り返しクギをさしてきたからである。
だがハイレベルのフォーラムは、すでに国連等で数多く行われ、棚の上には関連した決議、宣言、具体的な政策提言が山積みの状態であることを考えると、新たにTICADというフォーラムを開催することの必要性や意味は,最初から乏しかった。
アフリカからの参加者に対して、日本政府が第二として強調するのは、援助に期待する前に個別的にも集団的にも自助努力を、という言葉である。
自助努力とは具体的には、良き統治(Good Governance)や構造調整計画(Structural Adjustment Program)の導入による経済再建などを指す。
なおこの点では、かって冷戦戦略の観点から日本が米国と同様、アフリカの最も抑圧的で、腐敗した政権、例えば、南アの人種差別主義政権やザイールのモブツ、ケニアのモイ、マラウイのバンダ政権などを一貫して支援して「悪しき統治」の永続化に貢献したことを想起する必要があろう。
第三は、自助努力と言うが、東京が言う経済再建と新たな発展戦略自体はアフリカ諸国側が独自に形成したものではないという事実である。というのは、日本やそのパートナーである欧米及びその強い影響下にある世界銀行とIMFが策定した処方箋の枠組みの中でアフリカが自助努力をする、というフォーミュラがあるからである。
処方箋のカギとなる考え、判断は、東西対立が西側の勝利に終わった後ではもはや「Which Way Africa?ーThe Search for a New Societyー」(Basil Davidson, Penguin Books Ltd,The Third Edition, 1971)といった選択肢はない、というものである。
従ってアフリカは、資本主義的発展の道を欧米日を中心とするドナー諸国から言われた通りのやり方で歩めというものである。
そのシナリオの内容は、一方でのアフリカ諸国側による構造調整政策の忠実な実施、市場経済化の促進、民間セクター、つまり多国籍企業を含む外部資本の活動に好ましい環境を整備すること、国際競争力ある商品の増産と輸出拡大、世界経済とのさらなる統合といった努力。
他方での日米欧およびその資本によるODAや民間直接投資や通商貿易、技術協力等での協力によってアフリカ諸国側の経済成長を実現させる、というものである。(7)
だがよく考えてみればアフリカ諸国の多くが,独立後,上に述べたようなような基本戦略や方法で資本主義的な発展をめざしてきたのではないのだろうか。
その結果はどうであったのだろうか。アフリカで社会主義発展戦略は失敗したと言うが、では資本主義発展戦略は成功したのであろうか。アフリカ開発会議の宣言や決議や行動計画の行間を注意深く読むならば、日本がODAで深く関与したアジア資本主義の「成功物語」からアフリカは学ぶべきであるという日本政府の強い意思や選好が浮き彫りとなる。
そうした日本の外交当局者の基本姿勢は、TICADとは“アフリカ開発をめぐる政策やアイデイアの自由な取引が参加者によって行われている市場(marketplace)である”と表現する河野雅治外務省アフリカ審議官の主張に典型的に示されている。
彼の例え話を引用してみよう。“そのような「市場」において、日本は単なる一出店者であるにとどまらず、議題を設定し、成果文書をドラフトし、「市場」を管理する特別の役割を担っている。
別の言い方をすれば「市場」自体は確かに自由であるが、その「市場」の価値観やルール、いわば「通貨」を握っているのは、あくまでも日本であり、なおかつ他に例を見ない数とレベルの参加者を前に開会式において一番初めに小泉総理が日本のアフリカ政策を発信する、すなわち「市場」において最も良い売り場を確保しているというのが、TICADにおける日本の地位である。
このようにTICADは日本の対アフリカ外交の欠かせない要であると言って過言ではない。”(8)
第四として、日本政府が南南協力の意義や重要性を強調していることがある。もっとも東京の言う南南協力とは、北の先進国、特に日本、のイニシアチブの下にアジアとアフリカ諸国間の相互協力を促進させる、というパターナリステイックな考え方や方法論に立脚している。
だが南の国の人々にとってそうした日本政府の言葉の使用法には違和感を覚えるに違いない。なぜなら南南協力とは、内発的であり水平的でありさらに「持てる」北に対しては「持たざる」南が、ケースバイケースの立場から“公正な世界秩序”への変革を求める、といった性格や内容を持つものとして理解され歴史的に実践されてきたからである。
今年50周年を迎えるバンドン会議はその象徴ではなかっただろうか。東京のいう南南協力は、むしろ日本という大企業がアジアの新興国、例えば、ルック・イースト政策をとってきたマレーシア、という中小企業を下請けとして動員し、アフリカ開発に貢献するというピラミッド型の構図を連想させる。
アフリカの場合は、エジプトやチュニジアそして南アがマレーシアと同じ役割を東京から与えられている。(9)
第五の問題は、TICADを通じて日本はアフリカを何処よりも重視しているような印象を与えていることがある。だが実際にはどうなのであろうか。この点の理解については以下の元外務省経済協力局長の証言が参考となろう。
“よく日本の評論家たちは、アジア重視もよいが、もっとアフリカにも出せとか言いますが,他の先進国だって、例えばヨーロッパは、アフリカ重視ですし、アメリカは中南米重視です。日本だけがアフリカも含めて世界中に援助をしろなんて言われたって、これは困るわけですよ。アジア中心でということは当然です。”(10)
第六として以上のアジア重視を裏付けるかのような日本のアフリカへのコミットメントは限定的で良いという政治意思が外務省経済協力局長自身の言葉によって表明されていることがある。
“日本とアフリカの関係、アフリカ自身の援助吸収能力等から見まして10%というのは妥当なシェアではないだろうかと感じています。”(11)
この10%という配分比は年度によって若干の増減、日本の南ア政策批判が高まった1988年は13・76%、天皇裕仁の死去に伴い大規模な「弔問外交」が行われた1989年は15・34%と一時的に10%を大幅に超えたが、1990年以後も基本的に維持されていることに注意する必要があろう。
他方で、日本経済の長期不況や財政危機の深まり等により過去十年、ODA予算は急激な減少を余儀なくされる。
ちなみに日本のODA予算は1995年にはピークに達し145億ドルとなるが2003には89億ドルと4割も減少する。(12)
つまりアフリカ開発支援というTICADでの強い印象とは裏腹に日本のアフリカ諸国への援助額はむしろ低下しているのである。
アフリカの日本に対する期待に応える方法には、ODAの地域別配分に占めるアフリカのシェアの大幅増加や多額の対外債務の帳消し(13)などがある。
だが東京にはそれらを実行するために必要な強い政治意思は存在しない。となればアフリカ開発会議の会議場で日本に残されたオプションは現実にはレトリックの山を築き上げること、アフリカ側の個別的、集団的な自助努力を求めること、「南南協力」をキャッチフレーズとした国際社会による支援を訴えること、リップサービス的なBHNの提供などしか残されていないのである。
最後にアフリカ開発会議をめぐる二つの異なったイメージと実際について述べておく必要があろう。
一つは公式的かつ一般的に持たれているもので、アフリカ開発会議とはアフリカ大陸レベルでの開発を支援するための国際的な協議の場、というものである。
いま一つのそれは政府・外務省当局者内部で暗黙の了解事項として持たれているものである。
それによればアフリカ開発会議という名称を持つ会議ではあるが、中東圏に属するとされる北アフリカのエジプト、スーダン、チュニジア、リビア、アルジェリア、モロッコの6カ国は直接の対象とはされない。
これら諸国に対する援助は中東政策の枠組みで二国間、多国間レベルで取り扱っているためである。
またサハラ以南の地域であっても南ア共和国は日本のODA政策の対象とされていない。(もっとも政治的ジェスチャーとしての南ア黒人社会に対する小規模援助は行っているが。)
その理由は日本政府当局者が,歴史的に南アを先進国(人種差別は法律的に正しいとする国であったにも拘らず)と見なし対応してきたからである。(14)
さらに南アの場合、大規模で安定的な貿易や民間直接投資や技術移転による恩恵を日本から得てきているからである。
以上の了解事項から捉え直すとアフリカ開発会議で支援対象とする国々はアフリカの54カ国(西サハラを含む。もっとも日本は占領国のモロッコの立場に配慮(15)して同国を未承認)のうち、北アフリカの6カ国と西サハラさらに南アの8カ国を除いた46カ国となることが浮き彫りとなる。
言い換えるとTICADとは,北アフリカ諸国と南アにサンドイッチにされた国々やその周辺の島嶼国の安定と開発について国際的に協議する場なり機会ということとなる。
しかしこの46カ国に対する日本政府の対応さえ一律ではないということである。その訳は、一方でナイジェリア、ガーナ、ケニア、タンザニア、ザンビア、ジンバブエ、マラウィ、エチオピア、セネガル、ガボン、コンゴ(旧ザイール)等の一ダースほどの国々が東京からの大使の派遣や援助配分や経済使節団の派遣や招待外交などで優先的な取り扱いを受けてきたからである。(16)
だが他方で、残りの30ほどの国々は、過去40年以上にわたって東京から二次的な関心と対応の対象とされてきたからである。
TICADは、残念ながらブラックアフリカに対するそうした二国間関係レベルでの、「二階建てバス」的なアプローチを変えるものではなかった。
また日本政府当局者が言うパートナーがアフリカ諸国やAUというよりも、実際のところ米欧諸国や世界銀行、IMFであることもアフリカ側のフラストレーションを高めるのである。
“レトリックはもう沢山だ、われわれを対等なパートナーとして扱い具体的な支援を”という不平・不満の声がTICADに参加したアフリカ諸国から次第に強く上がるようになったのは、いわば必然であったと言えよう。
ちなみにコナレAU(アフリカ連合)委員長は2004年10月16日に京都で開かれた講演会で、“TICADにおいて日本政府のパートナーとなっているのはドナー側であって、AUはそれに従属させられている。”と厳しくTICADの現実を批判する。(17)
最後に日本のアフリカ政策が持つ階層構造を再確認しておきたい。
それは最底辺に30カ国ほどの「その他組」、第3層に1ダース強ほどの優先対応国、第2層に地域パートナーとしての南アやエジプトやモロッコそして頂点にグローバル・パートナーとしての米および英仏などの旧宗主国を有機的に組み込む構造を持つと判断される。(18)
註 (1)日本のアフリカ外交と第1回TICADの関連については、Jun Morikawa『JAPAN AND AFRICAーBig Business and Diplomacyー』HURST&COMPANY,LONDON 1997, pp203ー233参照。
TICAD関連の政府文献については、外務省HP"The Tokyo International Conference on African Development",を参照。
(2)1994年春に「アフリカ日本協議会」(AJF)が外務省との協調を重視するNGO集団によって結成される。その主たる目的は、ODA資金をNGOに還流させることに置かれた。資金の供与を受けるためには外交当局者に信頼される必要があった。その結果、アフリカ外交に対する批判分析的な調査研究とそれに基づくウォッチ・ドッグ活動や代替政策の提案活動は事実上放棄される。だが10年後、AJFは過去の活動のレビューを行い日本のアフリカ外交に対する検討とそれに基づいたアドボカシー活動の重要さを再確認するに至る。
(3)外務省ビルの3階に「霞クラブ」という約20社が参加する記者クラブがある。メディア各社は外務省の報道課を窓口に提供される情報に大きく依存して報道活動を行っている。他方、メディアに対する牽制も兼ねて毎朝10時から外務省幹部による新聞記事の検討会が行われている。
(4)外務省、『外交青書』、1993年、p93
(5)例えば、朝日新聞の1994年3月18日版、及び1994年10月15日版を参照。
(6)小和田恒、『参画から創造へー日本外交の目指すものー』、都市出版、1995年、pp227 ー228
(7)例えば、第1回TICADの東京宣言で注目されるのは以下の文言である。"Economic development through privateーsector activity as the driving force for sustainable development"及びApplication of successful development experiences in Asia to development activiteis in Africa and further expansion of SouthーSouth cooperation"である。第2回のTICADでは改めてアフリカの「世界経済への統合」が強調される。 また冷戦後に改訂された1992年の日本のODAガイドラインでは“市場経済の導入”に努力する国が援助供与において配慮されることが明記される。
(8)外交フォーラム No。196、 都市出版、2004年11月、pp82ー83
(9)外務省経済協力局編、『政府開発援助(ODA)国別データブック2002』、国際協力推進協会、2004年3月、pp227 ー228
(10)菊地清明、『経済外交の現場を語る一外交実務家の目』、鹿島平和研究所、2003年7月、p。92
(11)松浦晃一郎、『援助外交の最前線で考えたこと』、国際協力推進協会、1990年、p.194
(12)朝日新聞、2004年10月25日版
(13)日本における債務問題に対するNGOの取り組みについては、「AMPO, JapanーAsia Quarterly ReviewーJubilee2000,Okinawaー」, Vol.29 No,3,2000、PARC
(14)外務省『わが外交の近況』1983年版、p607
(15)北アフリカ諸国のうち日本政府が主柱として重視するのはエジプトである。その両脇を支える支柱としての親欧米派のモロッコとチュニジアにも優先的にODAが供与されてきた。西サハラ問題と日本外交といういわば忘れられたトピックに対しては、「西サハラキャンペーン・東京」および「日本サハラウイ(Saharaouie)協会・香川」が活発な調査と啓発と外務省への圧力団体活動を行っている。
(16)日本がなぜ特定の国々に援助を優先的に供与するのかについては経済決定論的な立場からの説明が支配的である。だがそれでは例えば資源的にも市場的にも魅力が乏しいマラウイやタンザニアを重視してきたか説明できない。
南アを承認し国交を樹立したマラウイの安定と発展を日本が外交やODAで支援することは南ア主導の南部アフリカ秩序の安定化に貢献する意味を持った。 もっともマラウイへの青年海外協力隊員派遣数の突出の理由について外務省は納得のいく説明をしてきていない。
タンザニアの場合は国際的な政治家であり南部アフリカ問題の解決に深く関与し、冷戦時代のアフリカに対する日本の「二元外交」を厳しく批判していたニエレレを宥和する必要があった側面を無視できない。二元外交とは一方でブラックアフリカとの友好親善・相互協力を主張しながら他方で人種差別主義政権との緊密な関係も維持し増進するという外交政策を指す。
(17)同講演会に参加した高林敏之の報告による。
(18)その例としては、『外交青書』1997年版、p302 の新日英行動計画ー世界に拡がる特別なパートナーシップ及び、p.304のアフリカでの援助協力を参照。
* この一文は、2003年の第3回のTICAD後の2004年に執筆され、2005年に出版された『African and Asian Studies』,Volume 4 No.4 2005, Special Issue: Africa and Japanese Experience, Guest Editor: Seifudein Adem に掲載された拙稿、"Japan and Africa after the Cold War",pp485-508の導入部分の日本語訳です。時期的に古いですが日本のアフリカ外交の構造や連続性には本質的な変更が無いと判断されるため本文部分には変更を加えていません。(高林敏之助教授による注)
■ 補足(四国学院大学 高林敏之助教授)
文中で言及のある小和田恒氏ですが、彼は外務事務次官在任中に自衛隊海外派遣の法制化を主導した後、次官経験者が駐米大使に転任する慣例を破って国連大使に就任、4年間(1994~98年)その職にとどまりました。
当時は日本政府が安保理常任理事国入り運動に最も熱を上げていた時期で、小和田氏はその推進役として大きな役割を果たしました。
海外の専門研究で、安保理常任理事国入りへの意思を初めて明確に表明した1993年の首相国連演説時に小和田次官の下で国連大使を務めていた波多野敬雄氏が、奇しくも同年にスタートしたTICADの発案者と名指しされていること(彼は国連大使になる前に中近東アフリカ局長を務めた)と併せて、TICADと安保理常任理事国入り運動の密接な関係をうかがわせます。
次に、北アフリカの位置について。北アフリカ諸国は一応、TICADに招請されていますが、TICADの実務をアフリカ審議官組織が担当し、北アフリカを所管する中東第1課が関与していないことにも見られるように、実質的には日本とサハラ以南アフリカ諸国を結ぶ「三角協力」の要としてアジア諸国同様の位置づけを与えられています。TICADと並行して締結されたモロッコとの各種協力協定では「三角協力」がしばしば明記されます。


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