一昨日、今年5月に横浜で開催される予定の第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)についての「TICAD、あるいは日本外交の緩慢な死についての省察」というドキッとするタイトルのエッセーが複数のMLで流れてきました。
前赴任先にいる頃からモヤモヤと感じていたことが端的に表現されていて、とても共感しました。
次々とトップ・ニュースの話題が変わって、その後のフォロー記事を見つけるのが困難な日常の中で、みなさん、今年初めに東アフリカのケニアで騒乱があったことを覚えていらっしゃるでしょうか。
それは、昨年暮れにあった大統領選挙の結果をめぐる現職大統領と野党第一党の政治的混乱と扇動によって引き起こされ、1000人以上の死者が出たと言われています。(市民の目から見た暴動についてはこちらのレポートを参照)
ちょうどその時期の年明けすぐに、TICADの準備も兼ねて日本の高村外相がケニアとタンザニアを訪問予定でした。しかし、外相は、ケニア訪問を取り止めて(正式には「延期」と発表)、タンザニアだけに立ち寄り「“元気なアフリカ”を作るパートナーとしての日本」というような話をして帰ってきたようです。
これが本当に同じ年にTICADを主催しようとしている国の大臣がやることか・・・「平和構築」を日本のODAの柱の一つと位置づけるならば、混乱の中にあるときこそ仲介役としてイニシアティブを発揮することが求められているのではないか・・・とその時点でTICAD IVに向けた政府の志の低さと逃げ腰に半ばあきらめを感じていました。<その時の気持ちはコチラ>
その後、国際開発、アフリカ関係のメーリングリストなどを通じて流れてくる情報でもアフリカ関連のNGOやNPOなどの市民社会団体が、TICADプロセスへの参画をめぐって苦労している様子を垣間見て暗澹たる思いをしていたところ、今回のエッセーを読み、うなずく指摘ばかりで何度も読み直しているところです。
もちろん、クラスナーが言うように、主権国家とは「組織的な偽善:Organized Hypocrisy」であるということを十分に理解した上で、では、近く開かれるTICAD IVが直面しているこのような情けない現実の中で、個人としての自分に一体何ができるのか、と自問しました。
そして、少なくとも団体に会員参加しているということだけでなく、個人としても何かアクションを取りたい、と思いました。
これまで「あきらめ」という言葉で自分の怠惰に言い訳をしていたことに気づいたのです。
以前、一新塾というNPOに在籍し学んだことがあるのですが、今回のTICADプロセスについて考える中で、やはり“健全かつ真っ当な”市民団体からの政策提言と政策実現のための行動こそが、日本社会のこの目を覆うばかりの制度疲労・劣化を食い止め、希望ある未来へと導くのではないかと改めて確信しました。
日本もイギリス同様、政府による更なる監視社会化と国家を盾にした不当な暴力の正当化が静かに、しかし確実に進行しているのではないでしょうか。その中で、私たちは不安と無関心に陥りがちです。
でも、恐れるべきは官僚や政府に全て任せきりの無責任なサイレント・マジョリティにとどまってしまうことで、政府に落胆している場合ではなく、理想を語り、政策を論じ、提言し、自らが行動し社会創造のプロセスに参加してゆかないといけないと、今回のエッセーを読ませていただいて強く感じました。
なお、下のエッセーの執筆者は、お名前を控えていらっしゃいます。
現状TICADの存在基盤が危ぶまれる状況において、何かしなければならない、との危機感から、あえて発言するリスクを選び、匿名で書かざるを得なかった、とのことです。
アフリカに関心のない方も、どうぞお知り合いと共有して、何かを感じてみてください。
TICAD、あるいは日本外交の緩慢な死についての省察
=1990年代のアフリカ開発を支えたイニシアティブの命脈は尽きたのか?=
古いものは死に絶えようとしているが、新しいものが生まれる可能性は見えない。このような空白の時代にあっては、実に様々の病的な兆候が生まれる。 =アントニオ・グラムシ
3月20~21日の二日間、中央アフリカに位置するガボン共和国の首都、中央アフリカの宝石といわれるリーブルヴィルで、第4回アフリカ開発会議(TICADIV)閣僚準備会合が開かれた。
サハラ・アラブ民主共和国を除くすべてのアフリカ諸国が閣僚やそれに準じる高官を派遣し、あらゆる国際機関・国連機関が顔をそろえたこの会議で、TICADIV本会議で採択される予定の「横浜宣言」草案と、この宣言を実体化した「行動計画」が提案された。
二日間の会合でなされた公式発言の多くを、日本のアフリカへの貢献と「横浜宣言」草案への賛辞が占めた。
高村外務大臣は初日を締めくくるレセプションで、「TICADがアフリカ開発の新しい時代を切り開いた」と、日本のイニシアティブを自賛した。
アフリカ諸国の高官たち、国連官僚たちは、「横浜宣言」・「行動計画」草案の内容の薄さ、国際的な政策潮流との乖離への驚きにゆがんだ表情、しかめた眉を、得意の外交的言辞によってたくみに覆い隠した。最後のセッションでいくつか表明された注文、意見は、あわただしいスケジュールの中でうやむやにされた。
共同主催者の一つを構成する日本政府は記者会見で曰く「多くの参加と率直な意見交換がなされ、会議は成功裏に終わった」。
波乱なく、ただ終わることを「成功」とするならば、これはたしかに比類なき「成功」と言えるだろう。
様々なトラブルが予測される中央アフリカ地域で、これだけの規模の会議を大過なく開催できたのだから。しかし、それが、アフリカ開発において現在直面している大きな問題を見過ごし、日本がなしうる多くの可能性を摘んだ上で実現したものだとしたら、私たちはそれを成功と呼ぶことが出来るのか。
後世から振り返ったときに、TICADの命脈を最終的に絶ったのは、日本外交が世界に羽ばたく可能性を終わらせたのは、あのガボン会議だったといわれる可能性すらあるというのに。
■ TICADの栄枯盛衰
過去を振り返れば、TICADはその15年の歴史の中で、いくつかの宝石を生み出している。
第1回TICADが開催されたのは1993年、冷戦の終了によってアフリカの資源大国をソ連に取られる心配がなくなった欧米諸国が、自分が庇護した独裁者たちを放り出し、アフリカへの資金を大幅に削減した時期だった。
それは「援助疲れ」と名づけられた。この状況下で、誰がアフリカ開発の担い手、進行役、行司役となるのか。手を上げたのが日本だった。TICADは日本の主導権の下でアフリカ開発の方針を形成するための多国間のフォーラムとして組織され、いくつかの重要な原則を生み出した。
その原則の一つが、アフリカ開発の担い手はアフリカ諸国であり、アフリカの「オーナーシップ」が尊重されるべきであること、そして、ドナー国や国連機関・国際機関などは、その「オーナーシップ」を支援する「パートナー」であるべきとの考え方であった。
TICADはその後、5年に1回開催される「プロセス」となり、日本はこのプロセスの担い手として、アフリカへの援助を増額、90年代中盤には、いくつかの国におけるトップドナーとなるに至った。
さらに、1998年に開催されたTICADIIにおいては、冷戦終了からグローバリズムへの過渡期において多くのアフリカ諸国が破局に直面する中で、アフリカの人間開発・社会開発の重要性をうたい、具体的な課題と数値目標、達成期限を定めた画期的な「東京行動計画」が定められた。この「東京行動計画」は、その2年後、国連ミレニアム総会に向けて別の形で練り上げられ、「ミレニアム開発目標」へと結実する。
TICADプロセスが開始された90年代は、欧米主導の構造調整政策と人間開発・社会開発軽視の風潮が跋扈する時期であった。この時期に、TICADはアフリカのオーナーシップを掲げ、アフリカの人間開発・社会開発を中心におくことを構想した。これは2000年のミレニアム宣言以降の、世界のアフリカとのかかわりを先取りするものであり、TICADは時代の先駆者であったといっても過言ではない。
この輝かしい歴史は、しかし2000年以降に失速する。日本の財政危機は、ODAの継続的な削減に帰結した。一般会計予算におけるODA額は、2008年には最盛期の60%にまで減少した。アフリカ向け援助の減少は、これよりもさらに急なものであった。このODAの急減は、日本政府の援助にかかわる意欲や革新性を減退させた。
もう一つの問題は、日本政府のアフリカ支援に関わるイデオロギーの不明確さである。TICADプロセスはそもそも、アフリカ開発におけるアフリカ諸国の「オーナーシップ」を称揚するものであった。
ところが、日本政府は2003年のTICADIIIにおいて、この「オーナーシップ」を「自助努力」と翻訳した。ここにおいて「オーナーシップ」は、特殊に日本・アフリカ関係の文脈においては、主権と自己決定権という尊厳の要素を失い、単なる「セルフ・ヘルプ」へと転落したのである。日本政府が90年代末に新たに確立した援助の理念である「人間の安全保障」も、援助の具体的なかたちとなるに至らなかった。
理念としての「人間の安全保障」は、プロジェクト案件形成の具体的な文脈において、小規模な分野統合的コミュニティ開発プロジェクトの別名として矮小化され、人々の安全と尊厳とをより広い範囲で守り育てるための、プログラム・レベルでの規模拡大を、多国間援助も含めた形で実現していくには至らなかったのである。
こうした援助額の減少とイデオロギー的な不明確さにより、TICADIIIは全く具体性のない会議へと転落した。何ものをも生み出さなかったこの会議をもって、TICADは終わるのではないかともささやかれた。
しかし、そうはならなかった。すでにわが国には、古くなったイニシアティブを廃止し、新しいものに置き換える力が残っていなかったのである。かくしてTICADIVは、新たな理由付けを得て2008年に実施されることとなった。
■ 2008年におけるTICAD:刷新の手がかりは見出されたか?
2008年の現在、TICADが自らを刷新して新たな存在意義を確保するための手がかりは、実は数多くある。
最も大きなものは、現代史においてたゆまず構築されたアフリカとの関係をもとに、アフリカに対して、過去とは比較にならない急速な経済進出を図る中国・インドなどの「新興」ドナー国とアフリカとの関係を、いかに互恵的なものとして構築していくかを追求するアジア・アフリカ多国間フォーラムとしてTICADを再定義していくことである。
次に、アフリカが気候変動に対して最も脆弱な大陸であることを認識し、いまや危険水域を越えた気候変動がアフリカにもたらす影響について把握し、気候変動への適応をいかに多国間で図っていくかについて、具体的な戦略を形成することである。
第三に、アフリカにおいてどのような経済成長が可能か、また、どのような哲学に基づいてそれを進めるか、多国間でその原則を確立することである。
最後に、1998年のTICAD東京行動計画をもとにして作られたミレニアム開発目標について、日本を含むTICAD共催者が、2015年までにこれを達成する上で何が必要か、その課題とビジョンを示すことである。
これらの課題は、相互に連関性をもちながら存在する複雑なパズルであり、まさに、海図を作り出しながらの航海の試みであるといえる。逆に、TICADが世界的に意味を持つためには、これらについて、世界をリードする創造的なイニシアティブを作り出すことが必要である。
TICADがアフリカ開発に向けたイノベーティブな多国間フォーラムを目指すというなら、これらの課題に果敢に挑戦し、新機軸を切り開こうという意欲をもって、「横浜宣言」および「行動計画」をまとめなければならない。
では、ガボン会議で示された「横浜宣言」「行動計画」それぞれの草案はそれにかなうものになったのか。以下見ていこう。
(1)新興ドナー国とのパートナーシップ
第一の点。ガボン会議で示された「横浜宣言」草案には、アフリカ開発において新興ドナー国をどのように位置づけ、これらの国々にいかに建設的な役割を担わせるかという点について、全く言及がない。
あるのは、最初のTICADの時から示されてきた、いわゆる「南南協力」の推進のみである。しかし、いまや中国、インド、韓国、ブラジル、さらにはアラブ諸国をはじめ、多くの国々が二国間・多国間でアフリカとの「南南協力」をわれわれの想像を超える形で開始している。
本来、TICADは、欧米の主導する援助潮流を取り込みつつ、「新興ドナー国」の先輩として試行錯誤してきた日本の経験をもとに、これらの新興ドナー国がアフリカにどのように関わる必要があるか、また、どのように関わってはならないかを示すべきであるし、示すことが出来るはずである。しかし、「横浜宣言」草案からは、TICADが新興ドナー国とアフリカとの関係のあり方にどのように関わっていくのかについて、なんら考察を見出すことが出来ないのである。
(2)気候変動の克服
次に第二の点。温室効果ガスをほとんど出していないアフリカ大陸において、気候変動の主要な問題項はすなわち、この大陸がどのように気候変動に適応しうるかということである。気候変動によりアフリカの水資源は20%以上減少し、降雨は不安定化する。
洪水や旱魃などの被害をどこまで押さえられるか、それによる人口移動がもたらす感染症などの被害をどこまで軽減できるか、そして、最終的にアフリカの気候変動に対する脆弱性をいかになくすことが出来るかが問われている。
ところが、「横浜宣言」草案に記述される気候変動対策はただ一点、福田総理が発表したいわゆる一兆円基金のみだ。この基金は、その多くが中所得国および中国やインドなど、工業化の進んだ途上国における省エネ技術の移転にあてられることが判明している。
ならば、この基金の何割を、アフリカにおける気候変動の適応策に充てるのか、また、気候変動という大陸規模の問題に対して、一国単位ではなく、国境を越えて対応できるかが課題になるはずである。ところが、「横浜宣言」草案にも、「行動計画」草案にも、この資金のうち、どの程度を適応策にあて、アフリカに拠出するかに関して、なんら記述がない。
また、この一兆円基金は二国間援助での対応を基本とする制度設計となっているがゆえに、国境を越えた対応を可能にするための、アフリカ連合や地域経済機構、国際機関との連携といったことも記述されていない。アフリカと気候変動という、いわば白紙のキャンパスに何を描くか、「横浜宣言」草案を読んでも、何も分からないのである。
(3)経済成長に向けた指針
経済成長についてはどうか。アフリカの経済成長の主要課題が農業にあることは当然である。そこでの焦点は「緑の革命」におかれる。しかし、気候変動による降雨の不安定化と乾燥化が指摘される中で、単一作物の画一的な栽培という「緑の革命」路線は、それ一本やりでは通用しない。いかに食糧安全保障との両立をはかるかが課題になるはずなのである。ところが、「横浜宣言」草案には、農業の多様な側面に対する配慮は十分に記述されていない。
農業との関連でそこに書き込まれているのはこれまた旧態依然とした「一村一品運動」である。ここには大きな矛盾がある。「一村一品運動」は、それだけであれば、むしろ地方レベルのコミュニティ開発を目的とするものにすぎない。これを経済成長の項目に書き込むのであれば、それが国・地域および大陸単位でどのようにマクロな経済成長と結びつけるかについて戦略がなければならない。しかし、その記述はない。
一方、日本は「横浜宣言」草案との関連で、アフリカでの道路インフラ等の拡充を中心とした広域インフラ整備にも乗り出し、援助を民間投資の呼び水とするとの主張を、不分明ではあるが始めている。
では、どのような戦略をもって広域インフラ整備をするのか。経済成長に関わるアフリカの根本的な課題は、大陸が54もの国家に分断され、一国規模では自立した経済圏を形成しにくいこと、さらに、植民地時代に形成されたインフラは、国・地域単位の経済発展ではなく、天然資源や輸出用の農産物を輸出するために整備されたものであり、これらのインフラの再整備にとどまっていては、アフリカの広域レベルでの自立発展に寄与しないことにある。
これを解決するためのヒントが、近年アフリカの地域レベルで形成されている南部アフリカ開発共同体(SADC)、西アフリカ経済共同体(ECOWAS)といった多国間経済共同体である。これらの共同体単位での経済統合をいかに支援するかが、アフリカの新しい時代を切り開くインフラ整備の鍵になるはずである。本来は、これらの地域共同体を基礎とした経済統合こそが、旧来の植民地支配によって形成された国境を越えた、アフリカが独立当初にかかげたアフリカの統一=パン・アフリカニズムの物質的な基盤を形成しうる。
それゆえに、TICADがかつての植民地支配の構造をなぞるのでなく、自立したアフリカの新しい時代を切り開く心意気を持つのであれば、広域インフラ整備は、既存の回廊の再整備にとどまるのでなく、これら地域共同体の経済基盤強化に寄与するものである必要がある。しかし、残念ながら、「横浜宣言」草案には、インフラ整備において「アフリカの自立支援」の名に値する新たな戦略は、全く提示されていない。ただインフラ整備をするというのみなのである。
(4)ミレニアム開発目標の達成
最後の点については、たとえば「保健」に関する「横浜宣言」草案から一目瞭然である。三大感染症への取組みに加え、保健システム強化、母子保健、保健従事者の増強が必要である=これだけだ。こんなことは、あえてTICADの宣言で指摘しなくても、誰もが知っていることだ。
TICADにおいて必要なのは、「では日本を含むTICAD共同主催者は、これにどのように取り組むのか」ということだ。多くの目標が達成できないとされているMDGsについて、中間年としての2008年に、TICADは何を打ち出すのか。問われていることはこれであるのに、なんら回答は示されていない。
ミレニアム開発目標の達成は、単にそれのみを自己目的とするものではない。アフリカの経済成長を健全なものとするためには、ミレニアム開発目標の達成は不可欠なのだ。例えば、世界経済におけるGDPの規模で21位(購買力平価)を誇る南アフリカ共和国の人間開発指数は121位である。
南アの例は極端だが、すべてのアフリカ諸国が、歴史的な過程できわめて深刻な社会的・経済的断裂をその国家の中に抱えている。この構造をそのままにして経済成長を図ることは、その実、きわめて危険なことである。ケニアの2008年初の経験が物語るように、断裂経済における経済成長は、資源配分を極端にゆがんだものとし、社会不安を極端に高め、ちょっとしたきっかけで「安定国家」が紛争に突入するといった事態を引き起こす。
であるがゆえに、持続的で安定した経済成長のためには、すべての国において、少なくともミレニアム開発目標を達成するというレベルでの社会開発と資源配分の適正化が必要となるのだ。ミレニアム開発目標の達成は、ただ「善意」の、もしくは「人権」の問題であるだけではない。
それは、アフリカの社会・経済の断裂を修復し、安定した持続的な経済成長を実現する前提であり、経済成長戦略も、新興ドナー国とのパートナーシップの構築も、いずれもまずはミレニアム開発目標の達成をその中心的な構成要素として考える必要があるはずなのである。
「横浜宣言」草案のミレニアム開発目標達成の項目には、こうした精神性は示されていない。ただ、国際的にやらなければならないことになっているから、という理由で、申し訳のように付け足されているだけである。だからこそ、「横浜宣言」草案のミレニアム開発目標の項目は、まるでパラフィン紙のように薄っぺらいのだ。
■ 日本外交の「緩慢な死」の象徴としてのTICAD IV
なぜ、こうなのか。なぜ、「横浜宣言」草案は、また「行動計画」草案は、これほどまでにアフリカの現実や課題と関係のない、旧来的な文言の繰り返しとなってしまうのか。
その理由は、端的に言って、現在のTICADプロセスが、日本外交の「惰性」の産物でしかないからである。TICADにおける政策作りは、その実、ほとんど共同主催者としての国連=そのプロセスにおける権限をすべて日本政府に簒奪された立場にある国連=に投げられた。
国連諸機関が連合してTICAD向けに作り上げた各種ポリシーを、日本政府の担当者が切り貼りして、いささかでも冒険的な・創造的なニュアンスがあるものは切り捨て、「大過なく」円満に会議を終えるための政策文書へと作り直した。日本政府でTICADを担当している者たちにとって、TICADは別にアフリカの真の自立や、日本とアフリカの新たなパートナーシップを切り開くために行うものではない。
「TICADをやろう、成果を出そう」と言っている政府首脳や高位政治家たちへのアカウンタビリティとして、手っ取り早く行わなければならない義務に過ぎない。結局、現在の局面を切り開くための新たな戦略など望むべくもない。
福田総理は2008年1月に開催されたダヴォス会議で「参加型アプローチ」を高らかに歌い上げた。
ところが、それとは裏腹に、TICADプロセスにおいては、国立大学や国立研究機関に存在する、きわめて優秀なアフリカ専門家たちの意見も、日々アフリカで開発に汗を流すNGOや市民社会の意見も、全くといってよいほど動員されていない。
それらの意見は、当然ながらアフリカ開発や日本とアフリカの関係に新機軸をもたらそうとするがゆえに、「大過なく」過ごしたい者たちにとって危険な要素を含みこんでいる。だからこそ、これらの意見は、あらかじめ放置され、収集されることすらない。
ガボン会議でなされた公式発言における数々の「外交的賛辞」は、アフリカを知る者たち、また、日本とアフリカに新たな建設的関係を作り出そうとする者たちの耳には、緩慢な死を迎えつつあるTICADプロセスへの挽歌として響いた。
しかし、実のところ日本外交は、TICADとG8を同時に迎え撃つ2008年において、日本の新たな浮上をかけて、何らかの勝負をかけようとしていたはずなのだ。資金はなくとも、政策によって世界をリードする気概を、なにほどかは持とうとしていたはずなのだ。
そして、TICAD横浜宣言と行動計画は、G8に向けて打ち出されるべき国際保健政策とともに、その気概の産物としての地位を与えられるはずであったのだ。そうであればなお、この「横浜宣言」草案と「行動計画」草案は、単にTICADプロセスというひとつのプロセスの命脈を絶つものとなるだけでなく、日本外交の「緩慢な死」を象徴する意味を持つこととなる。
私たちがこの2008年を、日本外交の再生の年、浮上の年としえないのであれば、私たちは次の再生の、浮上の機会を、いったいいつ持ちうるのか?それとも、私たちは、深い悲しみと共に、2008年をもって、わが国の外交の死亡宣告を行わなければならないのであろうか。


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